硫黄島の戦い

今年で終戦77年。

年々、戦争の被害が風化していく中で、

当時の事を知りたいと思い

一冊の本を読みました。

 

 

【散るぞ悲しき】 という硫黄島の本です。

 

 

栗林忠道という、指揮官の事をメインに

地獄の戦況、大本営の無謀な作戦などが

記載されていました。

 

 

読み終えて、先人への感謝が深まったと共に、

自分は苦労もせずに、楽な生活をしている事に

申し訳なさを感じました。

 

硫黄島では2万の兵が、渇きに苦しみ

雨を貯水し、1人1日水筒1本のみ

時には2~4人で1本

 

 

生還者の話しでは、

道に溜まった雨水を、四つん這いで

飲んだ時の、甘かった水が忘れられない

 

 

葉に夜露が光るのを見て大喜び、

静かに抱擁するように唇の先で受けた 。

 

 

終戦から7年後、坑道を再訪した際、

自然の水溜まりを発見、

靴で汚さぬよう、避けて歩いた』。

 

 

対するアメリカ軍は18リットル缶に水を入れ、

1隻につき6000本を積載。

揚陸艇70隻だけでも、42万リットルの水

持っていて、温かいコーヒー、

シャワーを浴る余裕さえあった。

 

 

日本軍は渇きに耐えながら、敵の上陸に備え

賢明な陣地製作を行っていました。

 

 

8カ月間、坑道を掘り続け

地熱で足袋は溶け、坑内は60℃

体に、ハエ・アリ・アブラ虫が纏わりつく

 

 

石が硬く、1日に1mを掘るが限界。

砲弾に耐えられる様に15~20m掘った。

 

 

作業中、空爆・艦砲射撃も受けた

この戦いで6,800トンの爆弾と、

21,926発の艦砲射撃が

硫黄島に放たれた。

 

 

地形が変わる程の攻撃を受けながらも、

地下要塞はアメリカ軍の上陸前には450

だったのが750に増えた事に、

アメリカ軍は舌を巻く。

 

 

5日で陥落できると思っていた、アメリカ軍は苦戦し

1945年2月19日~3月26日迄、

上陸作戦は長引く。

 

 

日本軍は2万人の内、約19,000人が戦死、

約1000人が戦傷。

 

アメリカ軍は6万人の内、6800人が戦死。

約19,000人が戦傷。

  

 

戦傷とは、手足が吹き飛ばされたり

失明、耳・鼻が千切れたりと地獄絵図のような状態。

 

 

被害を見ると、日本の戦果に驚愕します。

捕虜となった兵が、

イオージマ・ソルジャー特別だ

敬意の視線を浴びた事も頷けます。

 

 

食料も水も満足に摂取できない状況で、

何故このような戦いが出来たのか?

そこには、栗林中将の作戦・人柄が

大きく貢献していた様です。

 

 

一部抜粋して掲載します。

 

・栗林中将は、犬用の茶碗に少しの水を入れて、

目を洗い、それに部下の藤田が続き、

残りは便所の手洗い用に使う程、節水した。

 

 

・陣地を見回る際、馬の使用を勧めてられても

馬は『水をたくさん飲むから』と徒歩で回った。

 

 

・幹部の一人が汗を拭く為、

飲み水用の水槽に手拭いを浸したのを見て、

「銃殺に値する」と言った。

水の一滴は、血の一滴なのだ。

 

 

 

 

 

・食も水と同様、上下で差をつけず

将校も兵卒と同じ物とした。

 

 

 

 ・陸軍参謀の朝枝重春(中佐)が、

きゅうり・なす・トマトを

大籠に詰め、井戸水を四斗樽(約72リットル)を

持ち込んだ時、

栗林中将は涙し、副官に命じて野菜を

雀の餌ほどに刻み、連隊長以下の

兵全てに与えた

 

しかし、自らは口にせず、

僅かなパパイヤを集めて漬物にして、

囲りの者に与えていた。

 

 

高官は水・食料は優遇されるのが常識の中で

ここ迄、律する事が出来る人は少ない。

 

 

作戦も、大本営に異を唱えてアメリカ軍を

あえて楽に上陸させ、安堵した所で狙い打った。

 

初日、31,000人の米兵が上陸し

560人が戦死・行方不明。

1750人が負傷、90人が神経症で戦闘不能。

 

その夜、疲れ切った米兵はバンザイ突撃に怯えて

眠れぬ夜を過ごす。

 

 

米兵を震撼させた日本兵は、栗林中将と

以下の事を誓っていた。

 

・全力を振って守り抜かん

・爆薬を抱いて、敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん

・挺中敵中に斬込み、敵を鏖しせん

一発必中の射撃に依って、敵を撃ち倒さん

敵十人を倒さざれば、死すとも死せず

・最後の1人となるもゲリラに依って敵を悩まさん

 

 

現代人には、想像も付きませんし

国の為とは言え、やり切れない思いの兵も

大勢居た事と思います。

 

 

2万の兵は、何を思って戦ったのか、、、。

中には10代後半、20代前半の子供も

含まれていました。

 

 

印象的だった20代の遺書を、

掲載しておきます。

 

 

遺書

 

陛下の股肱として生を享け 今此の戦の庭に於て

屍を晒すは もとより覚悟の上でした。 

 

 

軍人の本望であります。

 

 

欣喜従容として死に赴きます。

只、満足に御奉公出来なかったのが何より

慚愧に堪えません。

 

 

二十有余年来 父母上様には多大のご苦労

御心配を御掛け致し 温いご加護の下に

今此の五尺に余る立派なる体に育て上げて下さいましたが

今何ら尽くす処知らず 甚だ申訳ありません。

 

 

只厚く感謝する外御座いません。

 

 

一部省略

 

 

私が心残りする事は 父母上様が今迄せっせと

一生懸命に御働きになって御作りになった

あの新しい立派な家を見られなかったのが

今考えて心残りするだけです。

他には なにもありません。

 

 

まだ書くことはある様ですが胸が込み上げて思い出しません。

では御元気で。

 

 

父母上様

  

 

言葉になりません。私たちは只々、

この平和はあなた方英霊のお陰ですと

感謝を持つ事しか出来ません。

 

 

戦闘も終盤に差し掛かった1945年3月16日。

栗林中将は、訣別電報を大本営へ送りました。

 

   

戦局、最後の関頭に直面せり。

 

敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は

真に鬼神を哭しむものあり。

 

 

特に想像を超えたるは、物量的優勢を以てする

 

陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以て

克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする。

 

 

然れども、飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、

為にご期待に反し此の要地を敵に委ぬる外なきに

致しは、小職の誠に恐懼に堪えざる所にして

幾重にも御詫申上ぐ。

 

 

今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を

行はんとするに方り、熟々皇恩を思ひ

粉骨砕身も亦悔いず。

 

 

特に本島を奪還せざる限り、

皇子永遠に安らかざるに思ひ至り、

縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の

捲土思来 の魁たらんことを期す。

 

 

茲に最後の関頭に重ねて衷情を披瀝すると共に、

只菅皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに

御別れ申上ぐ。

 

尚父島、母島等に就ては、同地麾下将兵、

如何なる敵のの攻撃をも断乎破摧し得るを

確信するも、何卒宜しく御願申上ぐ。

 

 

終わりに駄作、御笑覧供す。何卒玉斧を乞ふ。

 

 

国の為、重きつとめを果し得で

矢弾尽き果て、散るぞ悲しき

 

仇討たで野辺には朽ちじ吾はまた 

七度生まれて矛を執らむぞ

 

醜草の島に蔓延るその時の

皇国の行手一途に思ふ

 

 

 

3月17日 最後の突撃を前に兵を集め、

酒、たばこを2本配った。

 

『たとえ草を食み、土を噛り、野に伏するも

断じて戦うところ死中自ずから活あるを信ず。

ことここに至っては、一人百殺、これ以外にない。

本職は諸君の忠誠を信じている。

私の後に続いて下さい。』と栗林は述べる。

 

 

この時、杖をつき軍医に支えられている状態だった。

 

 

3月26日 

最後の攻撃で、アメリカ海兵隊、

陸軍航空隊の野営地を襲撃。

 

米兵はパニックになり、170名が死傷。

後の米海兵隊戦史では『日本軍の攻撃は

バンザイ突撃ではなく、最大の混乱と

破壊を狙った優秀な計画』とされた。

 

 

天皇陛下は硫黄島の惨状に

「せいこんを込めて戦ひし人

未だ地下に眠りて島は悲しき」

と 詠った。

 

 

戦後の遺骨収集も、メタンガスや

高温により回収できない事もある。 

 

また、遺体が風化した骨は

べた付きが有り、軍手で骨を拾うと

貼り付いて離れない。

 

それは、迎えに来てくれた人から

離れまいとするかのように。

 

 

中には黒い遺骨もあり、

それは火炎放射機で、焼かれた人の骨。

 

 

未だに、13,000の遺骨は

帰れぬままで、滑走路の下に埋まったままの

遺骨も多数。

 

 

私はこの本を読んで、仕事で水を使用する度に、

兵士の渇きに苦しむ姿が

目に浮かぶようになりました。

 

 

現代人は好きな時に飲み食いして、

雨風凌げる家に住み、

娯楽を楽しむ事もできる。

 

 

贅を尽くしながらも、不平不満に溢れる人々。

 

 

かたや水・食糧も少なく、勝ち目のない戦争に

駆り出された私達の祖父や父。

それを支えた祖母、母。

 

 

散っていった英霊は、今の日本人に何を思うだろうか?

 

 

私が出来る事は、品質を追求しお客様に喜んで頂く事です。

英霊が守った日本を、私は技術・誠実さで貢献したいと思います。